2018.05.07 06:30その1~市街地活性化事業~ 北海道の空知地方に人口1万足らずの砂川市があります。私はそこで地域開発の仕事に携わることができました。道内では多くの市や町は過疎化が進んで、盛んに商店街の衰退を防ごうと、 中心市街地活性化事業が取り組まれていました。現実には、過疎化を止めることはできなかったのですが。2003年から、砂川市の中心市街地活性化としてJR砂川駅を中心とした駅...
2018.05.07 06:28その2~砂川市の歴史~(砂川市のH.Pから)〇入植から戦前までの歩み 奈江村の開村で産声を上げる。いつの時代も、未開の地を開拓するにあたってもっとも重要なことは、道路の開設であったようです。明治19年北海道庁の初代長官に就任した 岩村通俊 は上川地方の開発を進めるため、同年 高畑利宜に昼なお暗い原始林に覆われていた岩見沢から忠別太(旭川)までの道路の開削を命じました。 囚人約500...
2018.05.07 06:23その3~地域交流センター基本設計~ 平成14年度の事業は、核となる施設の地域交流センター(市民会館の機能を備える)の基本設計でした。すでに議会の議論で、市民参加の懇話会を開催し意見を聞くことになっていたので、市民公募の委員を含めた約10名の委員による懇話会を設置し、基本設計を進めていくことにしました。また、この施設は耐用年数に近い老朽化した市民会館の機能を移す役割も持つこ...
2018.05.07 06:18その4~NPO活動で「市民の力をどう生かすか?」~ これまでの、NPO活動から「まちづくりは人」という思いが強かった。田村明さんの「横浜のまちづくり」や、アメリカサンフランシスコのNPOの実態調査から、NPOは決していいことだけではないと思っていた。行政と市民との関係、団体と個人の関係など、事業を進めるには、まず人がいて、思いがあって、それを事業化する意思と能力が必要。社会に貢献する意思...
2018.05.07 06:10その5~専門家の参加と運営委員会準備会の開催~ 平成14年度の基本設計は、主に道内で活躍する設計事務所5、6社を対象に選定委員会を設置し、プロポーザル方式で基本設計案について提案を求め、この中から北海道日建㈱が選定され基本設計は進められた。 このプロポーザル方式のメリットは、基本設計時に、施設を運営する方式などを含めてプレゼンテーションをしてもらい、その中から今回の設計を進めていくう...
2018.05.07 06:05その6~多くの方の知恵と努力がこの施設には生きている~〇変更案が認められてから化学反応が起きた。 変更案を準備会に報告した。それまで、批判的だったメンバーは柔和になり、建設的な意見が続々出始めた。これが、計画から参加することの意味するところで、この計画や事業を自分のものとして考えることができるようになったと私は思う。その後、道内の他の施設の視察や公開の市民フォーラムの開催で、運営に対する意識...
2018.05.07 06:00その7~砂川駅と地域交流センター~ JR砂川駅は函館本線の駅、「オホーツク2号」と「上り宗谷」を除く特急列車が停車する明治24年7月に開業した。 歌志内や上砂川の空知炭田から出炭される石炭貨物の中継基地だった。また、周囲には枕木の防腐処理工場(大正時代初頭まで)や枕木製造の木工場、軌道用の砂利採取場(昭和37年まで)を抱え、鉄道敷設に欠かせない資材供給の拠点でもあった。特...
2018.05.07 05:47その8~駅東部開発~〇私が、地域交流センターを中心とする砂川駅東部開発事業に係ったのは、たった2年間です。 私の仕事は「駅東部開発」が担当で、すでに開発計画は出来上がりレールは引かれていた。計画は開発から取り残されていたJR跡地、現在の砂川駅東部地区の住宅地としての開発と、廃れつづける駅前商店街の再生だった。 具体的な実施計画は、「まちなか居住」及び中心市街...
2018.05.07 05:35その9~NPO法人設立~運営は市民〇私が、砂川を去ったのは、平成16年4月、道庁の赴任命令で、道建設部へ移動になったが、砂川を離れ、札幌へ帰ってくる前の市議会の委員会で、小黒氏が市長に質問し「なぜ、渡辺を道へ返すのか?どうして引き止めないのか」の質問があり、胸が痛くなった。それは、実は市長からも事前に、慰留されていたこともあったから。自分としては、施設の目途が立ったことで...
2018.05.02 07:40その10~その後のゆう~<小黒氏のH.Pから> 〇地域交流センターを管理・運営するNPO法人「ゆう」は交流センターがオープンする前から活動が続いていました。そのNPO法人「ゆう」が主催した音楽劇「ミニ発表会」の様子です。会場は懐かしくも、今は市立病院が建っている場所。「市民会館」のステージで...