その2~砂川市の歴史~(砂川市のH.Pから)

〇入植から戦前までの歩み

 奈江村の開村で産声を上げる。いつの時代も、未開の地を開拓するにあたってもっとも重要なことは、道路の開設であったようです。明治19年北海道庁の初代長官に就任した 岩村通俊 は上川地方の開発を進めるため、同年 高畑利宜に昼なお暗い原始林に覆われていた岩見沢から忠別太(旭川)までの道路の開削を命じました。 囚人約500人を使って進めたこの工事により道路が開通し、さらに明治20年に歌志内炭鉱が開坑したことから、この地は忠別太方面と歌志内方面の交通の要所となり、人口は徐々に増加していきます。明治24年には歌志内の石炭を運び出すため、岩見沢-砂川間、砂川-歌志内間に鉄道が開設し、「砂川駅」が設置され、この頃から砂川市街が形成され始めました。道庁は鉄道工事に前後して砂川付近の土地区画測量を行い農民に貸し付け、これにより農民が入植。市街地には商店、飲食店が増加していきました。

 砂川は石狩川とその支流空知川の合流する位置にあり、河川によって木材の流送や砂利の採取が行われ、水田が開かれ、さらに東洋高圧をはじめとする様々な工業がおこり、今日の砂川が築かれたのですが、しばしば氾濫して大きな損害を与えてきたのも、また河川でした。

〇戦後、市制施行から現在までの歩み

 昭和20年に終戦を迎え、21年には戦争で工場建設に6年4か月もの歳月を要した東洋高圧北海道工業所が、ようやく待望の硫安生産を開始し、26年には北海道電力株式会社火力発電所の操作が自動化されました。商業では23年に商工会議所が承認されるなど地域の商圏が確定され、農業においても経済の安定化が図られていった。昭和30年の国勢調査では人口が3万人を超え、33年の地方自治法改正に伴い砂川町は市へ昇格、36・37年の大水害に見舞われた砂川は大規模な河川改修工事に着手、45年に総工費36億円をかけ砂川新水路が完成した。昭和48年に誘致運動が実り、北海道子どもの国が砂川に建設されることが決定。都市の基盤整備は着実に進行し、57年には国道12号線の一部に流雪溝を設置することで冬期間の快適な生活を実現した。現在では、道立こどもの国・砂川オアシスパーク・北光公園・砂川ハイウエイオアシスなどを有し、都市公園面積日本一や地域医療体制の充実が高い評価を得て、たびたび都市の「暮らしやすさ」ランキングでは上位に位置付けられています。

〇砂川市での私の役割

 私が砂川市に赴任した時は、すでに「まちづくり事業」のレールは敷かれ、事業がスタートする段階だった。この計画は国補助金1/3、あとは起債で約27億円の中心市街地活性化の事業で、未利用地の住宅地化とその基盤整備、集客を目論んで地域交流センターの建設、旧市街の駅西部から歩行の確保のための自由通路の建設、車両交通の整備として軌道下の片側通行の市道を道道による拡幅整備などです。 このまちづくりに関わった私の話をしようと思います。(つづく)


砂川市

明治の道路掘削

明治1年の水害


昭和36年、37年の大水害

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